『隷従への道』フリードリヒハイエク【前編】

  • 第一章 放棄された道

近代に個人のエネルギーが解放され、科学が驚異的に発展したことで、人間は自分の運命を自分で決められる新しい感覚に包まれた。野心がふくらみ、社会の進歩のスピードが鈍重に感じられる。自由主義社会は最小公倍数的に進み、どうしても歩みがのろい。また、社会全体の富の増大の分け前の僅少さを痛感する。人々はいらだちを募らせ、西欧文明を形成した個人主義の伝統を放棄した。

  • 第二章 偉大なユートピア

「民主社会主義」は実現不可能である。

社会主義は自由主義を駆逐したが、それは貧困の国から自由の国を標榜し、社会主義は自由と結びつくようになったが、それは自由が冨の別名に過ぎないことは明白である。しかし自由は拡大解釈され、ハイブリッドな自由が台頭を始めた。一方で共産主義とファシズムは同根の思想であることは徐々に理解され指摘されはじめた。

  • 第三章 個人主義と集散主義

「計画」は経済成長のスピード、中庸を求める人間心理に照らし、好都合の概念である一方、競争原理を排するため、消費者をないがしろにしてしまう。他方で「競争」はその原理が及ばない財サービスは市場に供給されない不具合を有する。

  • 第四章 計画の「必然性」

「社会が新たな道(社会主義)へ踏み出すのは自由意志ではない。技術革新によって競争が自ずから消滅するからだ。」という主張は明らかに誇張が過ぎる。独占や計画へ進む流れは、私たちの力の及ばない「客観的事実」の結集ではなく、宣伝の産物なのである。では問うてみたい。近代技術の発展は独占を促進されせるのか?なるほど確かに、大企業は生産コストを低下させ、販売価格の下落を通じて、小企業を駆逐することはできるが、そういったデータは無かった。それでは独占を促す力は何かを改めて問うてみたい。それは企業の共謀的取り決めであり、それを促す政府の諸策の結果であると。

  • 第5章 計画と民主主義

多数の個人の目的が同一となったとき、社会の目的となるが、万人が合意する完璧な価値基準は存在しない。この場合立法府は逡巡を覚え、複雑高度性より専門家へ裁量的な決定権限を法の名のもとに強権を付与する。合意形成の放棄プロセスは民主主義の無価値化であり、民主主義は万能ではないことの答えでもある。

  • 第六章 計画と法の支配

自由主義社会では法は成文法として生成され、形式的正義を有するが、計画経済では実質的に法と化したものが法とされる。政府はルールを定め、個人はその中で資源を有効活用し経済活動をする。法のルールに基づく国家行動が予測可能な状態である限り、自分の経済活動のため、役立てることができることが可能である、予測可能性こそが重要なのである。

  • 第七章 経済の管理と全体主義