そのひと

「中本一統」という言葉は中本の血筋をひく者という意味で、中本家と言い換えてもいいかもしれない。中上健二が路地の物語に主人公として登場させる者達は、この一統に属し、短くも濃い時間を生きてゆく。それは物語であって現実のとはやや距離のあるものだとなんとなくも思っていた。そのひとはたまたまその言葉を名にしていた。そのひともこちらでは名の通る一族であって、出会ってまもなくから、そのひとを形容する言葉を探していたが、豪放磊落、大胆にして繊細、用意周到等々、とりあえず、「ひとたらし」ということでいいんじゃぁないかと自分のなかでは得心している。そのひとは一人でそばやにやってきて、我々を見つけると、おぅと声を掛け、カウンターでそば定食に、コロッケつけてと注文し、隣のテーブルに座った。爾後、程なく入店した4人連れの家族が外れの席に腰を下ろしたのを見かねて、自らの席を譲り、我々の隣へとやおら、座り、サンダルを脱ぎ、あぐらをかいて、生卵を不乱に溶きはじめた。二の上まで腕は真っ黒に日焼けしていたが、首も、顔を、ほぼ同じほどこんがりと焼けていた。とにかく屈託のないえがおである。普通の人間は影やら、隠やら、触れられたくない部分は否応なく持ち合わせてしまっているが、そのひとはそれが全くない。人格の水平線彼方まで見通せて、その人の海は暗礁も時化もなく素人が船を走らせても事故はないと思わせる安心感がある。話題は花火大会のこと、会議所のこと、仕事のこと。方言の強い言葉でまくし立てるように話していた。やがて飯を全て胃袋に治めると、おごってやるよといって席を立った。残念なことに我々は前払いしていたので、その恩恵に浴することは出来なかった。