御白石持

式年遷宮の年、御白石持行事に参加する僥倖を得た。

紀伊半島は様々な導きよって数回訪れたことがあったが、伊勢は人生初となった。まさに、この時の為にとっておいたような伊勢であった。

日本らしさの核であり事象の原初であることを思うと背筋がビクリと脈打つ。

千葉から向かう道中の共に選んだのは中上健次。日輪の翼で飛んだ高速道路、その前とその先の生命が泡のように生まれる路地、聖と俗が絡まり合い見分けが付かないその風景らはとてつもない奥行きがある。地名の類似性からの紀伊半島と房総半島の共通性と差違なんか考えてみても、森の深さとそこから生まれる水量と文化の複雑重層さの加減では比較にならない。

 

「神領民」として「奉仕」した今回の御白石持ちであったが、改めて自分の立ち位置を否応なく確認させられたのは多くの「神」を前にして自分は「民」であることだ。当たり前なんだけど、普段の生活では「民」であることは意識しにくい。やはり奥深さ(神)を前にしないと自分の程度は図りかねていたのだろう。そして「奉仕」。重ねていえば普段の生活で「奉仕」といえば「ボランティア」と同義であるが、本来の奉仕とはこのようなことではないかと確認させられた。まちづくりや青少年育成はボランティアであろうが、この根幹には奥深さへ手を伸ばす行為こそが、公の為になす行為こそが、神様へ奉り仕える行為こそが奉仕の根幹であろうと実感した。

 

その後の外宮の御垣内参拝にて神職がこの行事を「国家祭事の基礎」と仰られた。すっと入ってくる言葉に大きく合点した。またバスガイドさんの神話の話とか、御白石持行事を地域一丸で支える地域の人々のこととか、ご同行頂いた青年神職のお話しとか、あらたな縁を頂いたこととか。たくさんのものを頂いた充実の旅であった。